早瀬憲太郎さんのインタビュー記事が朝日新聞に掲載されました。
(インタビュー)音のない世界に生きて ろうの子どもたちに手話で教えるろう者・早瀬憲太郎さん
手話を言語のひとつと認める「手話言語法」の制定を求める機運が高まっている。昨年までの3年間に、すべての地方議会で意見書が採択された。3年後には東京でパラリンピックも開かれる。子どもに手話で国語を教えてきたろう者の早瀬憲太郎さんに、手話通訳を介して、聞こえる世界と聞こえない世界について聞いた。
――昨年のリオ・パラリンピックで、NHKのキャスターを務められたのですね。
「東京のスタジオで9日間出演しました。気づかされたのは、いかに他の障害のことを知らなかったかということ。僕にとっては、車いすの人も目の見えない人も『聞こえる世界』の人ですから」 「一方で、だからこそ、障害というバイアス(先入観)なしに純粋なスポーツとして伝えられたのでは、とも思います。初めて目が不自由な人たちのゴールボールという競技を知りました。鈴の入ったボールを投げ合い、ゴールを奪う競技です。聞こえる人たちにろう者のことを知ってもらうには、僕も違う障害の人たちの世界を知らなくてはと強く感じました」
――3年後は東京です。日本の受け入れは大丈夫でしょうか。
「最近はスマホなど情報ツールも普及し、電車の中に電光掲示があるようにハード面は整いつつあります。でも、人の心つまりソフト面はまだまだです。例えば、空港での搭乗手続きで、僕が『耳が聞こえないから筆談を』と紙に書くと、航空会社の人は隣にいる妻に話しかけ、僕とコミュニケーションをとろうとしません。妻もろう者なのですが。差別する気持ちはないのでしょうが、聞こえない人と一緒にいるのは、聞こえる介護者だと無意識に思っているのかもしれません。そうした意識を変えるのは時間がかかるでしょう」
――どうすればいいのですか。
「『聴者』と『ろう者』が接する機会のないことが問題です。焼き肉屋に行ったときのことです。若い男性店員に身ぶりでメニューを頼むと、点字メニューを持ってきました。怒るというよりびっくりです。点字は目が見えない人のためのもの、と伝えたら彼は突然泣き出しました。食事の後、彼が手紙を持ってきた。『見えない人との区別ができなかった自分に悔しくて泣いた』と。僕は『君が悪いんじゃない。これまで聞こえない人に会えなかっただけ。今日出会えてよかった』と伝えました」 「数年後、僕が監督をした映画の上映会で、手話の堪能な若者が『覚えていますか』と話しかけてきました。あの店員でした。福祉施設の職員として働いていると言っていました。こういう出会いと気づきが社会にもっと必要です」
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――どんな子ども時代を過ごしましたか。
「僕は生まれながら耳が聞こえません。父母と妹の4人家族の中では僕だけがろうです。故郷の奈良でろう学校に通い、地元の公立の小・中学校では難聴学級で耳の聞こえない仲間とともに学びました。その後、中学から始めた柔道が強い私立の天理高校に進み、深く考えずに聞こえる人の世界に飛び込んでしまいました」
「僕が家族とけんかをするときは、目を見てします。でも、同級生はよそを見てけんかする。けんかがいつ始まっていつ終わったのか、僕にはわからない。それを知って驚きました」
「聴者の彼女ができて、デートでお化け屋敷に行きました。手をつないでドキドキ、わくわくして。でも、彼女と僕は怖いタイミングが全然違った。彼女は何かの音を聞いて、『キャー』と怖がる。僕は目で見ないとわからないから、むしろ怖がる彼女の顔を見て怖がるわけです。直後に出てくるお化けは全然怖くなかった。
その後、ろうの友人と同じお化け屋敷に行ったら、怖がるタイミングが同じでした。
お化けを見て同時に怖がった。聞いて感じる恐怖と見て感じる恐怖。
聞こえる人との違いはこれなんだと思いました」
「それで文化祭でお化け屋敷を企画しました。聞こえる人も聞こえない人も同時に怖がるようにできないかな、と。音のないお化け屋敷です。
そのとき初めて、通常は音楽がかかっていたことも知りました。
僕たちのお化け屋敷は聞こえる人にも新鮮で、かえって怖かったらしいですよ」
――聞こえる文化と聞こえない文化の融合ですね。
「共生するためにはどうすればいいのかに気づきました。聞こえる世界と聞こえない世界があることを認めた上で、違いを知る。それで初めて先に進める、と。聴者には音があるのは当たり前でしょうが、当たり前のことが当たり前ではない世界がある。僕にとっては音のない世界が当たり前ですが、そうでない世界もある。理解しなければと思うより、まず知ろう、気づこうという気持ち、そして何よりも想像力が大切です。出会いがあって初めて、互いに新たな世界、違う文化があることに気づく。それは、自分を見つめ、価値観を見直すことにもなります」
――映画監督や手話講座の講師、いまは競技自転車にも挑戦しています。なぜそんなに何事にも積極的なのですか。
「親子関係が僕を作ったと思います。親が障害に対して前向きであれば、子どもも前向きになり自己肯定感をもてる。還暦祝いに母にカメラを贈ったら、母は写真にはまり、あるコンテストで2位になった。受賞あいさつでこう言ったんです。『音のない世界に生きる息子の感性を大事にして学んだことで、自分の感性も育った』と。僕は聞こえない自分で良かったと思っていますが、母も聞こえない僕を産んでよかったと思ってくれていることが本当にうれしかったです」
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――大学卒業後、ろうの子どもたちの学習塾を立ち上げました。
「主に国語を教えています。聞こえる人は生まれたときから、意味が分からなくても日本語が自然に耳から入り、後で概念とつながる。ろうの子どもにはそれがない。目で見て、その場で覚えなくてはならない。だから、手話で十分にコミュニケーションをとりながら日本語の魅力を伝え、映像などを使って目で見て頭に残るような形で教える工夫もしています」
「ろう者にとっては100%認識できる言語は目で見る手話。第1言語が手話で、日本語は第2言語と言えます。でも、ろう学校でも手話は日本語習得の妨げになると排除された歴史があります」
――いま、70超の自治体で手話言語条例が制定され、すべての地方議会で手話言語法の制定を求める意見書が採択されています。
「手話言語法は、手話をひとつの言語と認める法律です。手話によるコミュニケーションを基本的人権としてとらえ、手話を獲得する▽手話で学ぶ▽手話を学ぶ▽手話を使う▽手話を守る、という権利を保障するというものです」
「ろうとして社会の中で生きることを認められつつあると感じます。やっとスタートラインに立ったような。手話が権利として認められる意味は大きい。これまでは第1言語を身につけられないまま、日本語の文化や言葉の世界に入らなければならないろう者が少なくなかったですから。日本には中途も含め聴覚障害者は約30万人いますが、手話を使えるのは数万人です。ろう者が生まれたときから手話を学び、それから日本語を覚える。ようやくそれが当たり前になるところまで近づいてきた。だれもが平等に言語を学び、文化を楽しむ環境になるのです。早く制定してもらいたいです」
「ただ、法律がろう者のためだけで終わってしまってはダメだと思います。NHKの『みんなの手話』でご一緒したV6の三宅健さんは『手話との出会いは人生を広げた』と言います。そういう意味で、手話言語法の制定は、聞こえる人にとっても手話と出会う、新しい文化と出会うチャンスです」
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――いろんな人たちが共生する社会にするためには何が必要でしょうか。
「東日本大震災で障害者の死亡率は健常者の2倍といいます。宮城県では肢体不自由者の次にろう者が多かったそうです。車いすの人は逃げたくても逃げられなかった。ろう者は逃げられなかったのではなく、防災無線などが聞こえず、逃げなかった人が多かったと思われます。情報があれば、助かった人がかなりいたのではないでしょうか」
「一方で、車いすの女性を助けたろうの夫婦がいます。津波が来ると教えてもらって助けに行ったそうです。情報さえもらえれば、ろう者も地域社会の一員として、地域の人を助けることができるのです」
「いまの社会で僕は『障害者』という視線を向けられています。障害者を『かわいそう』『理解してあげる』という見方ではなく、異なる文化をもつ一人の人間として、個として向き合う。互いに学び合い、どちらも助ける側にも助けられる側にもなる。そうなれば、障害があるとかないとかはどうでもいいことになります。『お互い様』になることが、共生社会の実現に近づく道だと思います」
(聞き手 編集委員・大久保真紀)
はやせけんたろう 1973生まれ。学習塾「早瀬道場」塾長。NHK「みんなの手話」講師を8年、映画「ゆずり葉」(2009年)の監督も務めた。
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