北城ろう学校からみる「日本学生野球憲章第十六条」と、「ろう学校」。1974年の福井ろう学校野球部の北陸大会への出場を認めなかった事件も取り上げました。
山本おさむが、「遥かなる甲子園」という漫画を描いていますが、そのモデルになった学校があります。
遥かなる甲子園全10巻 完結セット (アクションコミックス) 山本 おさむ
今はもうない「北城ろう学校」という学校です。
こんにち、聴覚に障害を持つ子供達にとって、甲子園への道を開いてくれたとも言えます。
1945年に日本は、敗戦し終戦となりました。
それから、沖縄は1972年までアメリカの統治下にありました。
アメリカで猛威を振るっている風疹がアメリカ基地を介して沖縄各地に広がりました。
1965年には、風疹が流行し500人以上とも言われている先天性風疹児が生まれ社会問題になりました。
生まれた子供の大半が耳に障害を持って生まれ、その子供たちは県内各地に難聴学級が設けられ、そこに通うことになった。
1978年4月1日ー1984年3月31日まで
6年間の期間限定で『北城ろう学 校』が設立された。 ※沖縄聾学校は別にありました。
『北城ろう学校』に入学した子供たちは高校に進学し硬式野球部を作った。
しかし、野球部員全員(16人)が、一年生。
彼らの夢は甲子園に出場すること。
しかし、子供たちの夢は
日本学生野球憲章第十六条
『それぞれの都道府県の高等学校野球連盟に加入することができる学校は学校教育法第四章に定めるものに限る』
という条例によって夢を絶たれる。
「ろう学校は第四章には当たらない」
※ろう学校は学校教育法第6章に規定されていて、第4章に定められた学校ではなかった
とされていたため、高野連の加入はできないとされていた。
加入ができなければ、他校との試合もできないばかりか、合同での練習さえ認められない。
又、聴覚に障害があることで、危険が及ぶという考えもあって、なかなか認められなかった。
同じ高校生でありながら、ろうあ者というだけで試合も出来ない、他校との練習も出来ないという、今では考えられない事がありました。
1981年8月
たまたま沖縄に取材に来ていた「日本聴力障害新聞」記者がこの問題を取り上げ、スクープ記事を発表。
記事は世論の大きな反響を呼び起こした。全国の国民から抗議の電話やFAXが日本高校野球連盟に殺到した。
そして、県高野連理事たちによって北城ろう学校野球部の練習試合を見て判断するということに。
その練習試合は北城ろう学校から近い距離にある「普天間高校」のグラウンドで行われた。
結果は5回までもたないコールド負けであったが、けがもなく試合は終わった。
二度目の判断試合は9月30日に中部商業高等学校で行われたが5回で打ち切られてしまった。
『北城ろう学校』が正式に県大会への出場を認められたのは子供たちが3年生になってからであった。
『北城ろう学校』のPTAや先生方の必死の働きかけが新聞社を動かし県内の世論を動かし、さらには日本高野連をも動かした。
1982年4月24日
『北城ろう学校』は、日本高野連に正式に加盟が認められた。
どんなに喜んだことでしょうね。これまでの悔しさを思いながら、泣いた人もいたと思います。
加盟後
第一戦のコザ高校との試合は7ー0、7回コールド負け。
第二戦、美里高校とは6回、7ー3(日没の為6回コールド負け)
その後の試合も8ー0、10-0、10-0とすべて大差で負けた。
それでも諦めず、毎日の練習によって次第に実力を上げていき3年生になった時には、健常者との試合で初めて一勝をとった。
そして、廃校が決まる最後の夏の県予選では、『宜野座高校』との戦いが待っていた。
6回までには、『宜野座高校』に4対0とリードされたが、彼らも粘りをみせ6回後半に3点を取り返してあと一点差というところまで詰め寄ったが、惜しくも 4-3で敗れたが、この試合は多くの観客の心に残る試合となった。
1984年3月
全校生徒の卒業とともに『北城ろう学校』は廃校となった。
その半年後に『沖縄県立沖縄ろう学校』が移転してきた。
現在の『沖縄ろう学校』の校庭や運動場に彼らの残した足跡がある。
∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴
1974年
1974年7月、全国高等学校軟式野球大会福井県予選大会の決勝戦で、福井県立ろう学校が県立武生高校池田分校を破り、初優勝を飾った。
しかし、福井県予選で優勝したにもかかわらず北陸大会への出場を認められず。
上部クラスの北陸地区大会への出場権について、福井県高等学校野球連盟は県大会優勝校である福井県立ろう学校を県代表と認めず、準優勝の高校を県代表として認め、北陸地区大会の出場権を与えた。
全日本ろうあ連盟などの障害者団体が日本高野連に強く抗議、大会を後援している朝日新聞社・毎日新聞社にも差別を許さないよう要請。
8月8日に日本高野連の全国理事会が開かれていた大阪の事務所の前でも、抗議の団体600人ほどが座り込み。
8月25日から開催する第十九回全国高校軟式優勝野球大会に北陸代表として参加を認められた。
これを機に
「特殊教育学校野球部の加盟については、当該都道府県高等学校野球連盟で全日制高等学校と同様の承認手続きを行う」
と改定されている。
北城ろう学校の加盟問題が起こったのは1981年で、この規定が周知徹底されていたならば、北城ろうの加盟は全く問題なかったと推察される。
また、このような誤解を生む学生野球憲章第16条そのものを変えるべきだとする意見もある。
2010年2月24日
野球憲章は、全面改正された。
これにより旧規定にあった多数の例外扱いはなくなり、一律に高等学校なら加盟は認められる形になった。
第3条 (2) で次のように明記されている。
イ 高等学校野球連盟に加盟できる学校は、原則として、学校教育法で定める高等学校とし、日本高等学校野球連盟は、日本学生野球協会の承認を得て、高等学校野球連盟に加盟する資格および基準を定める。
実際の北城ろう学校の野球部の映像です。
こちらは、実際に北城ろう学校野球部の記念すべき初めての公式試合の中継を担当された方のブログですが、ぜひご覧下さい。
太田さん(元近鉄投手)と交流 北城ろう学校元野球部員
元近鉄バファローズの投手でプロ野球解説者の太田幸司さんと、ろう学校として初めて甲子園県予選に出場し、漫画「はるかなる甲子園」のモデルにもなった元北城ろう学校野球部の仲嘉武彦さん(41)=うるま市勝連=と浜元昇さん(同)=糸満市=が16日、うるま市勝連で交流した。 2人は太田さんと対面し、身ぶり手ぶりで喜びを表現し、写真を撮り、サインをもらうなどしていた。 太田さんは「野球をする時の掛け声や打球音なども聞こえず大変なこと。すごいことだ」と話していた。浜元さんは「テレビで小さいころ、太田さんを見ていた。あまり話はできなかったがうれしかった」。仲嘉さんは「交流できて本当に良かった。また今後も会いたい」と喜んでいた。
0コメント